愛される酪農を目指して

愛知県田原市・デイリーパラダイス

「牛乳、それは自然(かみ)が人間に与えた最も完全に近い食品である。」
という外国の言葉を信じて、今日まで酪農家として、生きてきました。

“自信と誇りと責任をもって"幾度かあった大波は、何とか耐え忍んだものの、今回の波は、大きさが計れません。
「何としても乗り越えねば・・・」現在の心境です。

「名も知らぬ遠き島より流れ寄る椰子ひとつ・・・」の歌で知られる愛知県渥美半島。
その先端近くに当牧場は位置します。
デイリーパラダイスとは、酪農の楽園を意味するもので、人にとっても牛にとっても楽園でありたいと名付けました。
パーラーはもちろんのこと、牛舎の内外を清潔に保つことを常とし、周囲や消費者から「ここの牛乳が飲んでみたい。」「働くんならここの牧場がいいナァ。」と云われるような牧場にしたいと思っています。

フリーストール移行当時、外に向け使った言葉に、「食事は食堂で、休息はベッドで、そして搾乳はミルキング・パーラーで。」というのがありました。
i/fクラシック音楽を、リアルタイムで流して、牛をリラックスさせるよう心掛けています。

大正3年生まれの父が物心ついたときには、1頭の洋牛(ホルスタイン)と1頭の役牛(和牛)がいたそうです。
これが我家の酪農の始まりです。
父、母、自分達夫婦、長女、次女、三女、長男の8人家族と、140頭ほどの搾乳牛を含め、大小合わせて230頭の乳牛、さらに、草むしり隊長のポニー(馬)、セキュリティー部長のポッキー(犬)、マウスハンターのグレー(猫)が、現在の家族&スタッフです。

交流牧場連絡会との繋がりは、“牧場のスタンプラリー"から始まりました。
東京に集められた6名の酪農家により、「全国消費者交流牧場連絡会」立ち上げの為の協議が始められました。
後に、現在の「地域交流牧場全国連絡会」と正式に名付けられました(以下連絡会)。
この6名の中で乳製品の製造販売をしていないのは、小生一人でした。
幾度か協議する中、当初、居場所が違うような気がして、声をかけてきた人に相談したりしながらも運営に関わり現在に至っています。

この連絡会の活動に加えて、酪農教育ファーム活動がスタートしました。
両活動がリンクし、消費生活者との交流から、子どもたちや学校関係者などへの繋がりも多くなってきました。

安全・安心と一言で云うが、安全とは行政や調査・研究機関などが主に数字で示すものです。
安心とは、消費者が生産現場を訪れ、見学をし、日々の苦労や牛乳生産をしていくうえでの創意工夫・努力などの話を聞き、時には体験をすることにより理解し、得られるものだと思います。

小生の体験より。
5月の暑い日、あの雪印事件が起きて4~5日目の日曜日のこと(日に日に事件が大きくなり、ずさんな内容が明らかになりつつあった)。
隣町の親子連れが、38名ほど予定通り訪れました。親牛へのエサやりや子牛とのふれあい、搾乳体験などを行い、青空の下でバター作り。
汗をかきかきバターが出来上がり、パンやクラッカーに出来たてのバターを塗っての試食。

「よかったら牛乳をどうぞ(雪印の青パック牛乳)。」
「え~~ッ 雪印の牛乳――!」「ここの牛乳もこの中には入ってるの?」
「はい。全部ではないけど、うちの牛乳も入っています。」
「・・・・・・」

あるお母さんが「まっいいじゃない!伊藤さんとこの牛乳みたいなものだから。」
別のお母さんが「そうね。イヤなら飲まなきゃいいんだし。」

結果、ほとんどの親子はグイグイ飲み、用意した1ℓ入り12本の牛乳は、すべて飲みつくされました。
ちなみに、私の行った説明は「一部の問題を起こした製品はともかくとして、私たち生産者は、今日見ていただいた通り、きちんとした牛乳を生産しています。どうかそのことは理解してください。」という内容でした。
この時から、理解され、信頼されていれば安心してもらえる事を強く感じました。

多くの学問を駆使し、自分の行ったあらゆる努力は、乳牛を通して白い牛乳となり、相場に左右されることなく寸分の狂いもなく正当に評価され、それは収入となってフィードバックされます。
サラリーマンだった次男坊の小生が酪農を選択した訳はこれにありました。
儲かるだけの職業なら他に沢山あります。
人の健康に寄与し、自然と向き合い、牛を健康に飼うことで成り立つ酪農。
種族保存の法則のうえに成り立つ酪農。
さらに人の心の健康に役立つ産業へ。
社会貢献が出来てこそ一人前の産業といえるだろう。

多くの仲間と共に「目指そう-愛される酪農を。」