私の履歴書
(いやいやながら牛屋にされ?!)

北海道帯広市・リバティヒル広瀬牧場

私が物心付いた頃には、すでに我が家では牛を飼っていました。
当時は三回搾りをやっていたのですが、お昼の搾乳だったのでしょう、柔らかな日の差す古い牛舎で、バケツを膝で抱え「ジュッ、ジュッ」と同じリズムで乳を搾る母がいました。
その牛のお腹の下を母親の気を引くように、しゃがんで右に左にと行き来している自分。
これが私の記憶の中で最も古い牛との係わり合いでしょうか。

父が昭和23年に一頭のホルスタインの子牛を買ってきたのが我が家の酪農の始まりです。
「先ず家族が腹いっぱい飲んで、そして余った牛乳を出荷しよう。」というのが、父の牛飼い哲学でした。
食があまり豊かではない当時から、鍋に入った牛乳だけは必ず食卓に上っていました。
また、 小学校に上がった頃の冬のある日、父が「アイスクリームを作ろうか」と、言い出しました。
鍋に残っていた牛乳を薪ストーブに載せ、命ぜられるままにヘラで牛乳をゆっくりとかき混ぜていると、砂糖を「ドサッ」、卵の黄身を「ポトン」。「ほら焦げ付くから休まないで」といわれながらスプーンで味見。
「どうだ、これくらい甘けりゃいいだろう」「うん」。
母も「そうだね」と頷く。
父に教えられて雪に“塩"をたっぷりとふりかけ、その上に載せたボウルに“アイスクリームの素"を入れ、泡だて器でひたすらかき混ぜる。根気のない私は「ハイ、次は母ちゃん。」少しやっては「ハイ、今度は父ちゃん。」気が遠くなるほどの後、ようやく“アイスクリームらしくなってきたもの"を口に入れたときの感動たるや、いまだに“あの口解けの柔らかさと味"共に甦ってくるのです。

このような楽しい思い出だけでなく、こんなこともありました。
小学校2年生の2学期の初登校の日、夏休みの宿題を順番に先生に提出したときのことです。
「広瀬君ちょっとこっちに戻ってきて!」「(ドキッとしながら)えっ?は、はい。」「あのね、広瀬君、君の描いてきてくれた絵、よく見てみて。」「(クラスの視線を感じなら)??」
「君のうちの牛には眉毛があるの?帰ったら良~く見てきて!」クラス中笑いの渦!引っ込み思案の私にはすごいショックでした。
さらに、 その後も、牛との思い出は、枚挙に暇がないほどですが、死産だったとか、難産でお腹の中の子牛をばらばらにして出したこと、鼓張症で親牛が同時に2~3頭死んでしまったことなど、何故か辛いことの方が多いのです。

私の思春期は、農家の長男に生まれた事を心の底では疎ましく思いつつ、しかし、全てを捨てて飛び出すことの出来ない気弱な自分との相克の日々で、人生で一番辛い時代でした。

後継者として両親と一緒に農業、酪農に携わるようになってからも、何をやっても父には敵うはずもなく、失意の連続でしたが、ただ一人、心を癒してくれる人がいました。
その心を癒してくれる人に「貴方はね、このまま家を飛び出したら一生後悔するわよ!」と心のうちを見透かすように言われてしまいました。
その人(後の家内)に活を入れられ、いつしか 、私の経営目標は“親父と違う酪農"となっていました。

“親父と違う酪農"つまり、父の指示の下、唯々諾々と仕事をするのではなく、 仕事も遊びも嫁探しも自分の意思でやるのだと思った途端、心の重荷が取れ、昨日までとは全く違う自分がいる事に驚いたことを、鮮明に思い出します。

結婚した年のある日の夕方、東京の小学校6年生の男の子から、「コーヒー牛乳って、牛にコーヒーを飲ませたら出るんですか?」と言う質問の電話がありました。
唐突な電話に驚きつつ、
「君達が赤ちゃんの頃、お母さんのオッパイを飲んで育ったよね。」
「ううん、自分は覚えていないけど、妹が飲んでいたのを覚えている。」
との返事に「それじゃお母さんが、妹さんにオッパイを飲ませていたとき、コーヒーを飲んだらコーヒー味のオッパイがでたかな?」と私。
すかさずその男の子は電話の向こうから「出ないと思う。」
これなら話が早いと思い「それじゃ牛がコーヒー飲んだらコーヒー牛乳が出ると思う?」と聞くと、「分からない・・」
ここまで説明してどうして分からないのだろうと思いつつ、
「それじゃ、牛は何のために牛乳を出すか知っている?」と聞くと、また、「分からない・・」つまり、ウシもヒトもおなじ哺乳類であると言うと、「それじゃぁコーヒー牛乳は出ないよね」と、一件落着。
都会の、しかも子供だけならいざ知らず、日本の食料基地と自負している、ここ十勝、帯広の消費者の人たちも負けず劣らず、生産現場については、全く見識がありません。
これでは現場のことを伝えなければと思い、平成三年にミルキングパーラーを建設した際、二階から搾乳現場を見学できる部屋“見るキングパーラー"を併設し、そこから私の消費者交流が始まりました。

最近とみに、私が小学校5年生のときに88歳でなくなった曾祖母の言葉を思い出します。
明治9年生まれの彼女は頗る元気で、亡くなる前の日も一緒に夕食を摂り、一緒にNHKの『バス通り裏』と言う、ホームコメディも見たのですが、翌早朝、眠るように息を引き取っていました。
その彼女の最晩年の数年、一緒の布団に寝かせてもらいました。
その寝物語の中の一つで「善い百姓とは、畑に小判の跡をたくさんつける人のことをいうのだ!」と言う言葉を思い出すのです。
「物言わぬ作物に対して、手遅れにならないように草鞋を履いた足跡のことだよ」ということです。

我々生産者と消費者が乖離した状態が続いて久しい今日、生産者自ら消費者を現場に招き入れ、伝えることの大切さは言を俟たないのです。
ここ数年、私の牧場には年間100組3000人の児童生徒そして消費者の人たちが訪れています。
そして、農業の現実を農業者自らが伝えることは新しい時代、「二十一世紀の農作業なんだ!」と自負しているところです。
両親や家内、息子達に助けられながら忙しくても“親父と違う酪農"を実践していて、非常に充実している毎日でもあります。
しかし、忙しさにかまけて、本当に「牛が望むときに、その望みを果たしてやっているのだろうか?」と思うこともあります。

酪農経営を次世代に早くバトンタッチし、酪農教育ファームをライフワークとして心置きなく実施できる日の来ることを願う日々です。