我が家の牧場の歴史

宮崎県都城市・中西牧場

<父の時代>
誰でもそうだろうが、私の父も厳格で几帳面、毎日休む暇もなく常に働いているという印象だけが残っています。

青年時代は近衛師団に入隊、厳しい選抜があり許されるものであれば、男冥利に尽きるといわれるほどのことであったらしい。同時にインド洋のサイパン島では1時間に3千発という猛射にあいながらも九死に一生を得て生還、それからの父は、農業の道を歩きはじめました。

父の時代の農業は、米作りはもちろん、色々な野菜つくりや、繭の生産、山仕事と多様でした。今のように稼動率のよい農機具もなく、馬と鍬と小さな鎌ひとつで、草を払い、土を細かく砕き、種を蒔くという人の力が一番の世界でした。
ある時、真っ赤なトマトを作り、町に売りに行くと、トマトの珍しい時代ですから、青臭くて、真っ赤な野菜などと、全く相手にされなかったことがあったと、父は私に話してくれたことがありました。

父は、昭和28年(私が3歳)1頭の乳牛を導入、この地区ではじめて、誰も知らない酪農に挑戦。毎月の収入が確実にある酪農は、周りに大きく影響を及ぼし、瞬く間に近隣に広め、町の基幹産業として確立したようです。
とはいうものの、たとえ、1頭、2頭であっても、全くの手搾りでは大変な作業だったと思います。しかし、出荷すれば乳代として入ることで意欲的に取り組み、バケットを購入し、増頭してはミルカーを購入へといったようです。

全く、知識のない酪農を皆で模索し、農協の指導員や普及員の方々を招いては、酪農技術や牛体の管理、エサつくりを学んだとのこと。また、酪農の本場といわれる北海道の様子などを集乳所に集まっては話題にし、いつか自分達も大草原で牛飼うことを夢馳せていたといいます。そのために、地道な貯金で北海道より牛を導入したり、視察研修に本場の酪農を見に出かけたりしたこともあったようです。

気運が高まることで、酪農家同士の団結と共に乳牛の改良を目的とした品評会、共進会等を開催し、我が家も参加する機会も多くなりました。会場での乳牛の清廉さや父と牛とが一体化して歩く姿を目の当たりにして、私も心なしか酪農に魅かれて行きました。
そんな時、全国共進会(宮城県開催)に出品することが決まり、父は、7日間かけて列車に牛とともに上京、当時、父をサポートしてくださった方々や、何もかもがはじめてで、町内が大騒ぎだったことをよく覚えています。

その後、農林大臣賞を受賞し、両親揃って皇居へ出かけたことは、父の酪農家としての軌跡となり、自分も父のようにありたいと思う心が、私を48年間の酪農家へとつないでいます。

<私の時代>
昭和52年、結婚を機に、サッシ入りの30頭牛舎でパイプライン、個人バルククーラー設置となり、牛舎は数10倍の明るさとなり、快適な酪農環境です。搾乳した分は乳代として確実な見返りがあり、安定する状況になりました。公的な機関を交えて勉強会も熱心になり、各種の事業への取り組みにより施設、機材も完備し活気が満ちてきました。
しかしその反面、多頭飼養農家が増える中で、小頭数飼養農家の高齢化や、後継者不足、年中無休の重労働に酪農を離れていく農家が多く、戸数も半減していきました。
さらに、追い打ちをかけるように、生産調整を余儀なくされ、軌道に乗るはずの酪農に障害をみることになりました。

乳牛は、飼養を制限され、無理な乾乳や他牧場への移動、たくさんの頭数の淘汰もありました。出荷予定の生乳はバケツに放置され、隣近所への譲り受けは、消費拡大の妨げになると食紅を投入。真っ赤な生乳は今でも忘れる事のできない事実です。
生産調整が解除されても、乳牛たちは、体調の改善に数年かかり、乳量をとりもどし、立て直しに努めることは、相当な時間と労力が必要でした。
また、生産調整のみならず、日本の外交状況の中「ガットウルグアイランド」も続けざまで、乳価は上がることなく、毎年、下降状態でした。ますます、酪農家同士、ざるの中の米粒状態で振り落とされ、仲間はどんどん少なくなり数える程の戸数になり、同じ目的をもつ共同体がバラバラと崩れていく、何とも切ない時代でした。

四人の子供の親となった私もボヤいてばかりもおられず、父の物事を恐れず行動する姿を思い出し、食紅を投入された大事な牛乳の光景、淘汰された牛たちの淋しげな眼を忘れることはありませんでした。
周りと同じことをしていてはだめだ、何か工夫しなくてはというあせりの中で考えました。自分たちの生産物に農家自身のポリシイをもち、自分で価値価格をつけたいと思うようになったのです。
そんな時、小さな新聞記事の「美食賢食」という欄で、「蘇」という食品があることを知りました。
牛乳ぎらいの妻の、「蘇の試作を繰り返すうちに牛乳がいとおしくなった」という一言で、加工を思い立ち、現実のものにしようと一歩を踏み出しました。
その間にも、何回となく、いえ毎年、生産調整の風は吹き、過剰に出荷するとペナルティがつき、本当に苦しく、悔しい思いでしのいでいました。

「蘇」を試作する頃には、いろいろな情報も入手し、奈良の西井牧場で生産過剰の牛乳を加工しているという新聞記事を拝見し、同じ思いの先駆者がおられるのに喜びを感じました。何回となくご指導をいただき、私の牧場でも販売することに快諾をいただき、町内の道の駅に納品しました。これが加工へのきっかけです。
このことにより、酪農業に夢が咲き、牛乳の貴重性を感じ、酪農家としての弛まぬ努力と乳牛たちへの感謝といたわりが、さらに強くなりました。

父から、譲り受けた酪農は、基本の酪農です。
何も分からず全くのゼロからスタートし、それは、1頭の乳牛と両親と両親の身体で積み上げられたものと感じています。
私は、積み上げられたものを、より魅力的に仕上げ、自信と誇りをもって続けられるよう,次代にバトンタッチすることが自分の役目だと思っています。
醍醐味という言葉の語源は牛乳だとか。そして、この世で最高のものという意味だったら、3代目、自分で搾る牛乳の醍醐味を味わって、世の中に牛乳は、なくてはならない食品として位置づけをと願う父です。