セイランドファームの歩み

北海道網走郡・セイランドファーム

酪農家の一員となって39年の歳月が過ぎようとしています。40代半ばの両親と“若夫婦”といわれていた私達は、日々“がむしゃら“に働いていました。

清野牧場は、昭和40年代はじめの頃、両親が一頭の牛を導入することから始めた、まだ歴史の浅い牧場です。
両親は畑作中心で営農をつづけていたようですが、当時の北海道、特に北見地方の内陸部は冷涼な気候が続き、加えて両親の入植した地は高地のため作物の収穫はよくなかったようです。そこで、当時の営農指導もあり、牧草と飼料用デントコーンの作付けをするようになったようです。
搾乳とビート、小麦などの複合経営が長く続けられていました。

昭和45年、対頭式で48頭を収容できる牛舎を建設、パイプライン搾乳方式に切り替え、多頭飼育がはじまりました。
当時、夫はまだ学業半ばの頃でした。後に夫の両親は、この当時の日々の酪農の作業と技術的なことの苦労を私によく話していました。
この時期、夫は、家業の酪農を継承しようか悩みつつも大きな夢と展望を抱いて、酪農王国“ニュージーランド“研修に旅立ちました。

昭和48年、彼の帰国後、20頭牛舎の増設をし、250トン入るブロック製のタワーサイロ二基、建設、拡大を進めていた頃、私は牧場の一員になったのです。
国の農業政策と相まってこの頃から“ ゴールなき拡大”の時期を迎え、大型酪農経営のルートを歩むことになったのでした。

この頃から近隣の農家や酪農家は、将来への経営に対して拡大すべきか方向転換すべきか営農を中止するのかの“選択”を迫られ、地域の人々の生活も大きな転換を迫られたと思います。
長い間、酪農のシンボル的存在だった“輸送缶”からタンクローリー集荷に、そして大型のバルククーラー導入へと酪農の歴史が塗り替えられた時期でもありました。
地域の人たちがこの地を去っていくのを見送るのが、とてもつらい思い出となっています。

幸か不幸か、離農していった人たちの五戸の跡地を購入、施設の整理や土地の整備に奔走していました。
ビート、小麦などの換金作物とデントコーン、牧草、などの自給飼料を広く耕作していましたのでとても忙しい日々でした。
家にいる時間があまりなかった状態だったことが、今でも鮮明に記憶しています。
当時の酪農家の代名詞になっていました、朝が早いのと、暇のないこと、いつも知り合いに会うと“忙しいんでしょ??”が挨拶代わりでした。
この頃から少しずつ経営の中身や作業の効率とか俗に“人間らしい生活”を少しずつ取り込もうと考え始めたのでした。

我が家は、夫の両親と私達夫婦が働いていましたが、日々の生活に新しい風を呼び込みたいと思い、実習生を入れようと私は提案しました。
当時、地域や家庭に“他人”を呼び込む習慣がなかったため、かなりの抵抗があったりしましたが、第一号の実習生を迎え入れることができました。
スタートの頃は不思議な目が集まったりしましたが、あれから39年、数多くの実習生と暮らしてきました。
今では一人一人がセイランドファームの歴史を作ってくれたと感謝しています。
卒業生の活躍を一人一人紹介したいですが、別の機会にとっておきます。海外からの研修生もいます。結婚して家族が増え家族とともに、だれか、かれかが毎年のように訪ねてきてくれて、滞在していってくれます。



昭和45年、建設の軽量鉄骨の牛舎が壊れ始めたり牛にも、人にも不便を感じ始め、また労働時間をなんとしても短くできないこともあり、フリーストール牛舎への再投資の道も模索し始めたのでした。
そのころ夫が、スタンチョン式牛舎では避けられない、乾草や敷わらにつきものの、かび、ほこりに耐えられない健康状態になりました。
カビの胞子が血液中に侵入し高熱を発するという“農夫肺”であることがわかり、このままの形態では経営を続けることはできない状態でした。
牛にも、人にもやさしいスタイルのフリーストール、ミルキングパーラーシステムの牛舎建設に移行したのでした。

新しい技術を取り入れますと、人にとっても牛にとっても定着するには少しエネルギーと時間が必要でした。
飼料は牧草サイレージ中心にTMRに切り替えていました。
酪農一本に切り替え牧草栽培だけにしてビートや小麦、デントコーンの栽培は中止しました。
我が牧場にとっての二度目の大転換でした。

出荷乳量を増やすことに必死になっていたところ、肝心の所得につながらないことに気づくのでした。
“TMRは足し算の技術、放牧は引き算の技術”このことに行き着き、誰もが経験していなかった、フリーストール+放牧(昼夜)を経営の主軸としたのでした。
酪農が総合職であるということに、少しずつ気付かされるのでした。
社会的条件、自然条件、トータルで進んでいかないと、また、どこかにひずみが入っても、立ち行かない職業であることを知らされるのでした。

このころ“酪農家がともに情報を共有し合い交流、意見交換をする場を持とう“という機運が高まり、地域交流牧場全国連絡会の立ち上げに参加できる機会を作っていただいたのでした。
私達夫婦にとって、酪農を続けていく上での大きな励みと突破口になったのです。
地域で様々な活動をしてきましたが、さらに全国の酪農家仲間との交流は、大きな財産です。長年かかって築いた技術から生まれた自慢の牛乳を、今一度“チーズ”という形にして消費者に届けたい、そんな想いと地域交流のメンバーのプッシュをいただき、チーズ工房を立ち上げ製造販売を開始しました。

個々の牧場の努力だけで経営を存続しえない“構造的な ”危機に直面している酪農界ですが、なんとしてでも次世代につないでいきたいものです。

セイランドファームには、今も新規就農を目指して日々研修をしている若い男女がいます。
“俺は中学校の時から牧場で働くこと決めていた”と決心を揺るがすことなく就農した若き息子に、次世代を託せる社会や地域を構築することが、今の私達に与えられた大きな作業だと考えています。