半世紀を越えた我が家の酪農

新潟県新潟市・フジタファーム

2008年、北京オリンピックの年。絶やさぬよう引き継がれる聖火をみて、あらためて、酪農という仕事の重みを感じないわけにはいきません。
昭和29年8月17日、父(光男)が初任牛の分娩により搾乳を開始した日です。以来、今年8月で55年の歳月がたちます。昭和38年、電柱の頭を触れられるほどの豪雪。昭和39年、新潟地震。平成3年、長女の生死をさまようほどの交通事故。同年、台風19号による長時間の停電。枚挙をいとわない数知れない出来事を経験しながら、搾乳は様々な人たちに支えられて、一日も休むことなく続いています。

帯広畜産大学を卒業後、一年間の牧場実習(向牧場)を経て、昭和55年、就農。時はオイルショック後の酪農景気も終わり、生産調整という経験したことのない時代に突入していました。コスト削減が主要テーマとなり、食品残さの利用や古電柱で乾乳舎・育成舎を自力で建てました。父と二人三脚、電柱の穴堀りからコンクリート工事・屋根梁まで、色々な事を父から教わったのです。この努力は、昭和61年、熊本での全酪連主催の全国大会で評価をしていただき、一緒に発表した6人は今でも大切な仲間です。
平成に入り、ことのほか生産調整がゆるんできた事を受け、就農時からの想いである酪農にも休日のある生活を目指し、フリーストール・ミルキングパーラー方式による規模拡大を計画しました。有限会社の設立を平成3年6月に控えていた前月25日、乳価交渉のため雪印の新発田工場で団体交渉の最中、娘の交通事故の知らせが舞いこんできたのです。脳内出血で意識不明の状態で面会し、それから数週間、意識不明の状態が続き、妻と交代で夜中付き添い、搾乳の為に家に戻るという生活でした。ベッドで無意識に動かす娘の手をとりながら、一生、この子の面倒をみる覚悟をし、そのためにもしっかりした経営をしなければと会社設立の延期を思いとどまり、6月9日、病院から関係書類の提出をしました。私に力を与えてくれた娘は25歳になりました。

平成3年12月、新牛舎が完成、パーラー舎のコンクリートに妻が釘でThis is the presentfrom my husband for tenth wedding anniversary(この建物は、私の夫が結婚十周年を記念してプレゼントしてくれたものです) と刻んでくれましたが、果たして、プレゼントとなったのかどうかは、いまだに聞いていません。
規模拡大は、当然のことながら糞尿処理で悩むこととなり、苦労した結果、良質堆肥の生産、そして利用へとすすみ、地元の耕種農家との循環型農業へと変化しました。米の食管法改正により、売る自由の旗のもと、米の生産と販売を主目的とした生産組織を立ち上げ、平成10年9月には、有限会社を設立、環境保全型農業に取り組んでいます。
米の販売で消費者とのふれあいを通して、売る難しさと喜びを感じ、自信をもった生産物こそが商品となる事を実感しました。
そんな折、地域交流牧場連絡会で乳製品製造部会があることを知り、早速入会したわけです。妻のたっての希望でジェラートの製造販売を目指し、交牧連の海外研修や関係各位のサポートをうけ、平成14年6月ジェラテリア・レガーロをオープンしました。
レガーロとはイタリア語で贈り物という意味です。ベースとなる生乳は、自家農場・フジタファームの牛たちからの贈り物、新鮮な野菜や果物は、堆肥が入った大地からの贈り物という思いを込めました。店内には、イタリア&牛グッズが置かれ、手作りのパンフレットも好評です。店の庭はスッタフの力作で、シャッターを押される方も見受けられます。
開店より、想定以上のお客様のご来店で疲れも忘れて対応して参りました。お客様の生の声を生産・製造に活かすべく取り組んでおります。 一方、生産現場からのメッセージの発信は、体験搾乳を中心とした牧場での牛とのふれあいから酪農理解促進につながっていると確信しております。なかには、あまり関心のない子供たちもいますが、600キロ以上の牛たちを身近にすると牧場の話も聞いてくれますし、乳頭を握りしめて体温を感じる事で血がかよっているという実体験を経験できるのです。ファミコン世代が親になってきた時代です。
親子共々、ふれあい体験はますます貴重なものになっていくでしょう。

藤田家酪農三代目は、現在大学に在学中です。父より受け継いだ酪農を、今度は息子にどう受け継いでもらうことができるのか、責任は重大です。