雨にも負けず 風にも負けず
楽しんで農業しています

広島県府中市・池田牧場~遊牧民~

人間が食べれん草を食べて、乳を出して、肉になる。
これに勝る物はないけーのー。


61年前、祖父がこの考えのもとに牛1頭から池田牧場が始まりました。その10年後、広い土地を求め山を開墾し、今ある場所に移動して(広島県の東部地区にある府中市上下町。標高350mの小高い山の上)現在の池田牧場が始まりました。
二代目の父が「この子しかおらん。」と、酪農家の娘で、牛と牛乳が大好きだった母に惚れ込んだのが31年前です。
その後、姉、私、妹の3人娘が産まれ、規模拡大を目指していましたが、喘息で姉が入院をした時、「子供が体を壊したのに、仕事優先で一緒に居れんのは悲しい。」という母の願いから、経営方針を規模縮小へ変更をしました。
この時から、牛にも人にも大地にも何をすべきかを考え始め、労力軽減のためと牛のために繋ぎ牛舎から、フリーバーン3頭シングルパーラーで、総頭数50頭(搾乳30頭、育成20頭)、また、牧草地には農薬よりも雑草を、たまには研修を兼ねて息抜きを(ヘルパーを利用して、家族で視察旅行。)など、規模を小さくした分、ゆとりある経営へ変わっていきました。

なんでー、自分で育てた牛を食べれんのん?

母のこの疑問から、牛のオーナー制「遊牧民の会」が出来たのが20年前です。
自分の牛には自信がある!何を食べたか、どんな育て方をしているかよく分かっているからこそ、ちょっと硬いけれど、噛めば噛むほど味が出ておいしい!これを、消費者の方々にも味わって貰おうと、牛オーナーを募りました。
この活動が、消費者の方々と本格的に交流を始めるきっかけとなりました。

会を重ねる内に、自分たちの休憩場所や実習生の宿泊施設にと建てた施設へ泊まりたいと多くの希望をよせられた事や、海外へ研修に行ってグリーンツーリズムの刺激を受けていた事もあり、両親はその施設を改造し農家民宿を始めました。
さらに、妹の結婚式場にと、多目的ホールを作ったり(この頃、地域交流牧場全国連絡会に入りました)自分のソフトクリームが食べれると、張り切ってカフェを作ったり、研修や視察で、国内外に行った時、趣味で集め続けてきた牛グッズを展示するグッズ館などなど・・・多くの建築物があります。
これらを、じっくりみてみると・・・ん?電柱?ガードレール?などなど、見たことある物たちで建築されています。
ある時は、大工左官、又ある時は水道・電気屋さん。土建屋にもなり、内装業者にもなる・・・これが、池田牧場の特徴で、敷地内の建築物は全て手作りです。最近は、機械メーカーにもなったらしく、ウインドローや、ダンプの荷台などを作りました。(父の趣味ですよ)

8年前、外国語系の短大にいた私は久しぶりの里帰りで一目惚れをしました。
それまで、あまりにも近くにいて気が付かなかった生き物、そう、牛の瞳に惚れたのです。両親の口から「しんでえー。」や「たいぎいー。」を聞いたことが無かったですし、牛の事や作業の話を楽しそうに話している両親を見てきていたので、酪農は「面白い仕事だ!」と思い込んでいましたから、自分自身の進路変更は、夢と希望でドキドキでした。
いざしてみると・・・自分の素人加減に苦笑いでしたが・・・。

広島といえば「宮島」「お好み焼き」「カープ(野球球団)」を思われるでしょう。赤一色だった池田牧場に、昨年から黒と黄色のシマシマ模様の「トラ吉」が来ました。

牛?テレビでなら見たことあるで!

都会育ちで農業をまったく知らない若者が、私に惚れ込んで(そう言う事にしちゃいます☆)酪農の世界に飛び込んできました。彼の前の職業が、スーパーなどの販売店勤務だったので、乳価格がなぜ上がらないのか(小売業側の考え方)や、農家のアピール不足、牛乳という商品に対してどう向き合うかなど、作る側と販売側との考えの違いを多く学ぶことが出来ました。

この世界に携わって、改めて農業の面白さや大変さ、やりがいなどを感じています。しかし現在、海外からの輸入農産物があふれ、食物の大切さや価値観、農業に対しての重要度などが見失われてしまったように感じます。この事は、酪農家だけでなく多くの生産者を苦しめているのではないでしょうか。
これから自分が出来る事として、一人でも多くの方々に、この国で胸を張って農業をしていることを知って欲しい、農業は、人が生きていくための食物を作る誇り高き職業なのだと、伝えていける牧場になりたいです。